teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. 足あと帳(1)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


Re: ショック!お悔やみを申しあげます

 投稿者:HP管理人  投稿日:2016年 7月 5日(火)18時48分19秒 113-61-120-151.ohta.j-cnet.jp
返信・引用
  > No.47[元記事へ]

> 本当の九州論者が亡くなってショックです。一度いらしてくださりお会いしたことがあります。まさに快男子・好男子でした。大和論者ばかり出すNHK-BSのトンデモ番組を見たあとだけに同志を失った思いです。大変残念です。悔しいです。あの楽しい一日を思い返しております。また歴史学が大後退してしまいました。孤軍奮闘してまいります。このサイトはぜひ残してほしいと思います。繰り返し残念な思いです。合掌。 森田昇龍拝
追伸 私のHPはその後また移転しました。http://kamakurabusi.web.fc2.com/ です。
 
 

お悔やみ申し上げます。

 投稿者:kituno  投稿日:2014年 5月 7日(水)22時27分9秒 softbank126019206140.bbtec.net
返信・引用
  今月末に念願の九州旅行が実現できることになり、伊作さんにご報告をと思って久々ブログを覗いて伊作さんが亡くなられたことを知り、大変ショックを受けています。
私が作成しているYahoo掲示板「聖徳太子と織田信長に恋しています」では、貴重なご意見を何度かいただき,大変お世話になりました。
伊作さんは常に純粋に持論を展開され、その持論はきちんとした史料解読の元にされていて、とても尊敬していました。

九州に邪馬台国があったと信じている私にとって、とても心強い論者の一人でした。

些細な言葉の行き違いから伊作さんに不快な思いをさせてしまったこともありました。
この場をお借りして、深くお詫び申し上げます。

繊細で率直な伊作さんの意見が聞けなくなったかと思うと、深い悲しみで胸が押しつぶされそうです。

伊作さん、本当にありがとうございました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
 

ショック!お悔やみを申しあげます

 投稿者:歴史管理人・昇龍  投稿日:2014年 4月14日(月)08時16分37秒 113-61-112-66.ohta.j-cnet.jp
返信・引用
  本当の九州論者が亡くなってショックです。一度いらしてくださりお会いしたことがあります。まさに快男子・好男子でした。大和論者ばかり出すNHK-BSのトンデモ番組を見たあとだけに同志を失った思いです。大変残念です。悔しいです。あの楽しい一日を思い返しております。また歴史学が大後退してしまいました。孤軍奮闘してまいります。このサイトはぜひ残してほしいと思います。繰り返し残念な思いです。合掌。 森田昇龍拝

http://atsites.jp/kodaijin/

 

サイト変更のお知らせ

 投稿者:歴史管理人  投稿日:2014年 4月 5日(土)09時32分10秒 113-61-112-40.ohta.j-cnet.jp
返信・引用
  「森田昇龍の世界へようこそ 三角縁神獣鏡編」は http://atsites.jp/kodaijin/sankaku.html に変わっていますのでそこんとこよろしくね。

http://atsites.jp/kodaijin/

 

サイト移動のお知らせ

 投稿者:歴史管理人  投稿日:2014年 2月27日(木)01時09分24秒 113-61-112-72.ohta.j-cnet.jp
返信・引用
  「森田昇龍の世界へようこそ」は http://atsites.jp/kodaijin/sankaku.html へ引越しましたのでよろしくお願い致します。  

「邪馬臺國」ダイジェスト 

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2013年11月16日(土)15時09分47秒 p6184-ipad106fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  ※「邪馬臺國」=「卑彌呼」の居所説明文言の「天(あま・あめ)たィ」の九州弁訛りを「邪馬たィ」と聴き取り、国名と勘違いしたもの。

*「邪馬壹國」=「卑彌呼」の居所説明文言の「天(あま・あめ)ン上(うヰ)」の九州弁訛りを「邪馬上(うヰ)」と聴き取り、「上」の“wi” を「壹」の“yi”の訛りと聴き取ったもの。

∵『隋書』で現地踏査した裴世清が、前史の誤謬を訂正している。

*「古(いにしえ)の「邪馬臺」(國の文字を外して)とは(来て見たら)「邪靡堆」だった」、と合点している。

*「邪靡堆」=(黒髪が)靡く(様な)堆(うずたか)いだけの小山の事だった、と。

*その山は「水縄連山(耳納山地)」である。

*東西25キロの山頂はノコギリの歯状を呈し、山腹はその下り尾根と谷沢で「黒髪靡く」様を呈する。

∴「天(あま・あめ)」=「高天原」=水縄連山(耳納山地)である。

*伊都國の南千五百里に在る。

※実在した国名だとの認識で、古今の先哲英才が何百年掛かって探しても見付からない筈である。

*他の三十ヶ国の国名の殆どが、国情説明文言の一部を国名と勘違いしている。

 

伊都国・奴国・不弥国

 投稿者:やまだよしえ  投稿日:2013年 7月 9日(火)12時40分35秒 p42129-ipngn1301hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  伊都国について私見です。
 157年に倭面土国王師升朝貢す。とあります。面上国と書いてあることもありますが、これは面土国の書き間違いと思っていいですよね。
 また、日本書紀に、筑紫米多国という地名が出てきます。時代は違うのかもしれませんが、面土、或いは米多とは、メタと読めます。私はこれを、さらにムタ、と読みたいと思います。
 九州各地に残る「牟田」の地名の多さに驚きます。三田、目達を含めると30ぐらいあります。今に残るのがそんなにあるなら、もっと有ったに違いありません。その範囲は、私の考える末蘆(伊万里)にも、唐津のそばにも、中央にも、玉名にも、熊本八代にも広がっています。伊都国はムタでありましょう。伊はマ行、都はタです。牟田は大国であったと思います。 卑弥呼に半分ほど提供し、そこを大牟田国という国名にした、ということは考えられませんか。
 邪馬台国は大牟田(おふむた」国と読めないこともありません。邪馬と書いてオフムラ、伊邪をミヘ、というのが私の考えです。
 伊万里、又は唐津から東南に五百里は牟田国の実質上の首都があります。今は平原、というあたりでしょうか。なぜなら、更に東南100里に奴国(今の久留米。久留米のメを取った)
画あり、東に行けば百里で不弥国(ヒタと読み、今の鳥栖です。鳥栖は新しい地名で、昔は平田)に行くことができます。その三角が、平原のあたりを示しています。ここは、放斜線読みだと思います。なぜなら、
  東南陸行五百里至伊都国
  東南至奴国百里   と比べて、
  東行至不弥国百里   と、行の字が多く、行けば、という仮定で、はないか、と思われるからです。従って、邪馬台国への経路上ではないはずです。

 私見、とお断りしつつも、可なり無茶を言っている気が致します。資料を読んでも、自分の都合のよいように解釈する癖もあります。続きはまたにして、どうぞ、ご批判をお待ちしております。   やまだよしえ
 

隈の付く地名

 投稿者:やまだよしえ  投稿日:2013年 7月 6日(土)12時21分51秒 p42129-ipngn1301hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  (隈の付く地名)を拝見いたしました。
長年の疑問が氷解いたしました。
 私は、志賀島から発見された金印、『倭委奴国王』は、倭のクマ国王、と読むと思って居ります。委をクと読むか、については、後漢書に、顔師古が注に曰く、委は倭語のカ行(一戎反ーいっくぁたんーであると。・・・戎の字が正しく出ませんが・・・奴はかねてより、マ、と考えていますのでクマです。しかし、何故、此処、志賀島に、クマ国の金印が?と不思議でした。先生のお説により、ある時期、クマ国の領域が北部九州に及んでいたからだ、ということを知りました。そうすれば、志賀島は、玄関ですものね。
 57年に授与された金印ではないと思います。あれは、奴国でした。薩摩と思います。
 

続・邪馬台・同盟国

 投稿者:やまだよしえ  投稿日:2013年 7月 5日(金)21時21分34秒 p42129-ipngn1301hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
   邪馬台国は、熊本を中心とし、玉名、大牟田、山鹿、菊池を含んだ大国であったと思っています。従って、邪馬台国の説明の後(次に斯馬国あり、)と記された斯馬国は、近隣に違いない、と思います。そして、すぐ近くの霧島を当ててみました。
 斯馬 ――シマ  霧島
 己百支――ミヤキ 宮崎
 伊邪 ――ミヘ  三重(大分)
 郡支 ――サイキ 佐伯
 弥奴 ――タマ  珠(現・宇佐)そして博多へ。一応、ぐるりと一巡します。
次回、伊都国・奴国・不弥国につき書いてみたいと思います。  やまだよしえ
 

続・邪馬台・同盟国

 投稿者:やまだよしえ  投稿日:2013年 7月 5日(金)12時10分46秒 p42129-ipngn1301hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
   邪馬 ――オフム  大村
 射(寸でなく正しくは弓ですが)臣――イサ  諫早
 巴利 ――ハラ   島原
 支惟 ――クノツ  口之津
 烏奴 ――アマ   天草
 奴  ――マ    薩摩

 尚、始めに戻りますが、末蘆国は、定説では唐津になっていて皆様納得しておられます。
 私は、伊万里、もありえるのではないか、と考えました。
  伊万里は、除福さんが3000人を連れて来た、という伝説を持ち、「元」も大軍を率いて来た、(これは事実です)後年、有田焼を世界に向けて積み出したほどの、内海の天然の良港です。険しい唐津の港だと、船を下りた後も大変だったろう、と、確か、先生も書いていらっしゃいました。
壱岐からの方角・距離は、合わなくはありません。
東南に進めば、私の思う伊都国に五百里で着きます。五百里は、先生は36キロ、私も40  キロ足らずと思っています。  ではまた書き込ませていただきます。
  t
  
 

邪馬台・同盟国

 投稿者:やまだよしえ  投稿日:2013年 7月 4日(木)12時02分34秒 p42129-ipngn1301hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
   サイトでご紹介いただいた井沢氏の説に、古い時代の言葉に詳しい中国の方の読み方では、好古都は、ハカタに近い、とありました。なので、私の私見はそこから始めます。

 好古都――ハカタ  博多です。
 不呼 ――フク   福間です。当事福岡という地名はなかったので。
 姐奴 ――アマ   甘木。奴をマ、と読むのは後に別記します。
 対蘇 ――ツクシ  筑紫。
 蘇奴 ――シマ   糸島。
 呼邑 ――キュウ  厳木。
 華奴蘇奴――カミツシマ  上対馬。
 鬼  ――キ    壱岐。
 為吾 ――ナガ   長崎
 鬼奴 ――カシマ  鹿島

今日は此処まで書きました。国として現在の地名に近く、かつ、並んでいませんか?
 

辰巳の方角

 投稿者:やまだよしえ  投稿日:2013年 6月29日(土)00時19分0秒 p42129-ipngn1301hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
   御神体である山を、辰巳の方角に祀った、というのは、鬼道、というよりもっといぜんの、古い荒覇吐の信仰であったかもしれません。(熊野や、東北地方では、古代、たしかに、辰巳の方角に向かって祈りをささげていたことが有ったようですが・・・)生半可な知識を書き込んで申し訳ありませんでした。ご丁寧なご指導、有難うございました。
 次回、邪馬台国の、というか、同盟国の読み方について聴いていただければうれしゅうございます。、あまりに荒唐無稽、とお思いかもしれませんが。   やまだよしえ
 
 

ついしん

 投稿者:管理人より  投稿日:2013年 6月28日(金)18時14分41秒 i223-219-176-191.s41.a009.ap.plala.or.jp
返信・引用
  古くからある阿蘇神社は「阿蘇山を祀る神社」とされますが、この神社は阿蘇山のほぼ北にあり、阿蘇山を南に見る位置にあります。参道は「横参道」といわれる参道で、東西に走っています。

阿蘇山を辰巳の方角から崇め祀ったという事実はないようです。
 

●少し気になったこと

 投稿者:管理人より  投稿日:2013年 6月28日(金)17時56分40秒 i223-219-176-191.s41.a009.ap.plala.or.jp
返信・引用 編集済
  「鬼道の考え方で、阿蘇山を辰巳の方角に拝むとすると」とありますが、卑弥呼の鬼道が阿蘇山を崇めていたという事実はありません。
卑弥呼の鬼道は道教の前身あたる天師道(世間では五斗米道と混同されている)だと思いますが、この教団が崇めていたのは神仙(崑崙山)に棲むといわれた西王母です。この神は人間の死を司りましたが、死を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられるという信仰によって、徐々に不老不死の力を与える神女というイメージに変化していきました。やがて、天師道が道教へと昇華すると、「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化します。
道教の崇める神は複雑で、西王母に対して東王父という存在もあったり、上帝鬼神信仰というものがあったり、天皇・地皇・人皇の「三皇」があったりしますが、山岳そのものを崇め祀った例を私は知りません。

中国古来の天子が伝統的に祀ったのは、「天帝(天神)と地神」です。天帝は北極星を神格化した北辰五至尊の一つで、天皇大帝とも呼ばれました。これは道教よりも遥かに古く道教とは無関係です。

●くり返します。
「鬼道の考え方で、阿蘇山を辰巳の方角に拝むとすると」とあります。単なる「たとえば」というほど言い回しですが、これが山田さんの中では、「阿蘇山を辰巳の方角に拝むのが鬼道の祭祀方法である」という決定事項となり、阿蘇山を祀る場所が卑弥呼の祭祀場(ひいては卑弥呼の居所)へと続く論法のようです。しかし、最初の前提が間違っていればその上に積み上げた論法は意味がないと思います。

論法手法としてはまず、「鬼道の考え方で、阿蘇山を辰巳の方角に拝むとすると」が歴史的に正しいことを立証するのが先でしょう。
私は倭国王となった以降の卑弥呼は、(現在まで連綿と天皇家に伝わっているように)中国古来の天子が祀った、天地神を祀っていたと思います。
 

うてな台地と米原台地を卑弥呼以前の倭国王都とした理由

 投稿者:管理人より  投稿日:2013年 6月28日(金)17時54分11秒 i223-219-176-191.s41.a009.ap.plala.or.jp
返信・引用 編集済
  ●米原台地の実情から
地元の考古学関係者によると、「米原台地にある鞠智城趾の8角楼閣は7世紀の遺物を含んだ整地層の上に立つ」。「遺物としては縄文時代から少し飛んで弥生終末期のものと古墳時代前期の土器などが出土しており、そこから飛んで7世紀以降の遺跡と遺物が出土している」といいます。
「弥生終末から古墳時代前期」という限られたこの時期には、倭国大乱の時期が入るし、吉野ケ里が長い役割を終えた時期とも重なります。また、鞠智城趾の人工貯水池と底から出土した木製の鋤は、卑弥呼時代以前のものである可能性が高いようです。

●「陸行2000里」という距離の問題から
『三国志』東夷伝の韓伝と倭人伝が魏の公式尺度の約6倍の数値で書かれており、そこから割り出した「陸行2000里」は、直線距離で144km前後という数値になります。山鹿や菊池ではこの数値に足りません。
(伊都国を小城市の東南あたりとした場合、ここまでが500里ですから、邪馬台国までは2000里引く500里で残りは1500里。末魯国から伊都国までの距離の3倍になりますが、山鹿や菊池ではこの数値の面でも足りません)。

●不弥国の南方という方角の問題から
菊池の米原は不弥国の南ではない。

私は長く熊本平野を邪馬台国領域と考えており、菊池川上流部の「うてに台地」が倭国王都で、その上の米原台地に倭国王の王城があって、これを卑弥呼が踏襲したと考えてきました。しかし、以上の抜き差しならない理由によって、私は、卑弥呼の王都はここから移転したものと考えるようになったのです。その上で倭人伝の記録に従って進んだところが、弥生の大型建造物遺構(掘っ建て柱)をもつ託麻原の台地にたどり着いたというわけです。
 

祭祀の場としてのうてな

 投稿者:やまだよしえ  投稿日:2013年 6月27日(木)16時02分34秒 p42129-ipngn1301hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  早速のお優しいお返事有難うございます。
 まず、先生の、邪馬台国へのルート、距離、卑弥呼は誰か、などの論旨が明快で納得でき、とても好きです。
細かいところは違っても、私の考え方を分ってくださるかもしれない、と思いました。私の考え方は、邪馬台国の同盟国、というか、21カ国の国名の読み方から勉強を始め、素人なりに邪馬台国連合を九州一円に特定いたしました。まず、伊都国を先生は「いつ」と読んでいらっしゃいますが、従来の、ほかの方の、「いと」とは、読み方も考え方も、場所の設定も違う。!従って、その後の邪馬台国の導き出し方もぜんぜんちがう!と、わくわく拝見した次第です。
 まして、うてな、米原台、くくちの項を読むに至り、雷に打たれたように感動いたしました。
 卑弥呼の国は、伊都国の半分ぐらいを譲られた7万戸の大きな国です。南は熊本の八代のあたりから北へ向かい、今で言う熊本、玉名、大牟田、山鹿、菊池の各平野を含むものであったと確信しております。理由は長くなりますので結論のみ。ただ、その本拠地、卑弥呼の居城たる祭祀の場がどこであったか、いままで見つけられませんでした。
 鬼道の考え方で、阿蘇山を辰巳の方角に拝むとすると、そこは、阿蘇山の北西に当たると思い、地図上に北西の45度の線を引きました。が、土地勘もなくただぼんやりと山鹿のあたりか、と考えていただけでした。そして先生の、(気になるうてな、米原台、くくち)を発見!ああうれしい、探していた場所、ぴたりとくるところを教えていただいた!と思いましたが、先生はそこを飛ばしてもっと先まで探しに行ってしまわれました。
 結論として緑川流域が正しいのかもしれません。私も自説に拘っている口かもしれませんが、折角見つけたうてな、先生にもう一度検証していただけたら嬉しいと思い、再度お便りいたします。                 やまだよしえ
 

はじめまして

 投稿者:やまだよしえ  投稿日:2013年 6月20日(木)21時12分37秒 p42129-ipngn1301hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
   私は、卑弥呼及び邪馬台国を、別の考え方で追っています。やっと奇跡の解法というこのサイトを見つけ、わが意を得たと思いましたが、掲示板の遣り取りの言葉の汚さに少し辟易し、恐らく素人の私が考えを書き込んでも、馬鹿にされるかののしられるかではないかと想像し、敬遠しておりました。しかし、本日やっとこの掲示板を見つけました。5月いっぱいで閉じられたことを知り、まことに残念でなりません。
 お伺いしたいことが沢山ありますのに・・・
 例えば、うてな台、米原台、くくち、それを見つけながら、邪馬台国を別に持っていってしまったことしまったことなど。先生とお話したい時は、どこへ書き込めばいいのでしょうか。他の方法を思いつかないので、此処に一筆申し上げます。    やまだよしえ
 

掲示版を閉鎖いたします

 投稿者:管理人より  投稿日:2013年 6月 3日(月)08時59分3秒 i114-186-33-120.s41.a009.ap.plala.or.jp
返信・引用 編集済
  6月になりました。
先の予告通り、管理人の都合により、
近々にこの掲示版を閉鎖いたします。

必要な記事がある場合は早急に保存願います。
 

詔と詔書は重ならない?

 投稿者:MM3210  投稿日:2013年 5月14日(火)14時52分11秒 softbank126111094212.bbtec.net
返信・引用
  > 詔と詔書は別物です。詔を文書にしたものが詔書でしょう。

使者は、「詔」を録音して持ってきたのでしょうか。

> 淵は兵を発して反く、儉は軍を進めてこれ討たんとす。雨の十日連くに会い、遼水大い
に漲(あふ)れ、儉に★詔★して軍を引いて還らす」。

 この時の毋丘儉は、度遼将軍として軍隊を指揮して遼隧に駐屯している。

この陣営から★詔書★を持参して公孫淵陣営に出向き、公孫淵に★読み聞かせた★勅使
のことが完全に省略されている。

続いて、大雨が10日も続いて遼水が溢れたために、毋丘儉に詔勅をくだして軍を引き上げ
させているが、ここでもほ★詔書★を持参した勅使のことにはまったく言及していない。

紀元節2月11日の意義   http://www.geocities.jp/yasuko8787/130503.htm

「戦中遣使」という説のウソ  http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-2-3.htm

景初2年を支持する「五つの疑い」のウソ http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-2-4.htm

中国の学者の景初2年説の誤り  http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-2-6.htm
 

参考事実

 投稿者:管理人より  投稿日:2013年 5月13日(月)10時40分36秒 actkyo100232.adsl.ppp.infoweb.ne.jp
返信・引用 編集済
  ●使節派遣の常識
 天子の命令・許可・任命を受けた印しに、旄という「から牛」の毛で作った節が与えられる。天子代理の使者として節を与えられた者を使節という。国家間交流の儀礼として使者や使節に軍人は起用しない。正始元年にやってきた帯方郡の建中校尉梯儁を使節とみる見解もあるが、彼は、魏本国から親魏倭王の金印と天子の詔書を持参した使節に、護衛と先駆を兼ねて帯方郡から同行してきた武人官吏で、使節ではない。
 詔書を持参できるのは、皇帝から節を与えられた使節だけであり、一行に使節がいたことは中国人にとっては「いわずもがな」の常識である。何よりも、郡太守が使節を立てることも現実にはあり得ない。使節を立てることができるのは天子だけである。さらに強調するが、詔書を持参できるのも使節(あるいは勅使・特使)だけである。倭国にやってきた使節も金印を卑弥呼にポイと渡すのではなく、作法にのっとった授与儀式を執行して渡す。この儀式ができるのも使節である。

 私がこうやって主張する王朝の制度や外交儀礼は、論証の必要のない常識的事実である。表記した常識的事実に対する異論として、「使節の名がなく護衛と先駆を兼ねた建中校尉の名が書かれているのはおかしいのではないか」という意見が出されたことがある。
 魏の人間が倭国に詔書を持参したシーンをよくよくご注目いただきたい。正始元年は「梯儁等を遣わし」で、正始8年には「張政等を遣わし」という複数表現が使われている。この「等」の中に、魏本国から詔書を持参した勅使・特使一行が含まれていたはずである。とくに正始元年の場合、卑弥呼に印綬を渡す授与儀式を執行する儀礼官吏なども同行していたと考えなければならない。
 また、臨時に起用された帯方郡の校尉・梯儁や辺境警備の掾史・張政クラスが、皇帝代理として倭国王と外交接見できるわけがない。使節団には、そうした外務担当の官吏も同行していたはずである。これは歴史の現場を想定すれば当然のことである。また、こうしたことがいうまでもない常識で(勅使・特使の派遣は日常茶飯事)であるために、くどく使節を派遣したとも書いてないし使節の名も書いてないのである。

▼皇帝の決定的発言である詔は政治的にも大変重要で、官庁組織の中でもとくに慎重に扱われたとみえて、公にする前に、門下省でその文言と内容の吟味・出納がされ、これを中書省が記録して詔書として伝達する。『隋書』に登場する文林郎・裵清のように特別に使節代表の名が書かれている場合を除けば、多くの場合はこの中書省の官吏が詔書の伝達を行なったものと思われる。当然のことだが、歴史動向の記録に主眼を置く歴史書が、こうした事務方の動きや官吏の名をいちいち書くことはないのである。

●特使派遣事実の省略事例
 『三国志』には、天子が洛陽にいながらにして、遠隔地や戦場などにいる諸将を封拝したり、命令をくだしたりするシーンが頻繁に登場する。ここで必ず詔勅がくだされているのだが、詔書や印綬を持参した勅使はほとんどの場合省略されている。そんな顕著な例をあげよう。

 景初元年7月。明帝は中原の北方を荒らし回る高句麗対策を口実に、幽州刺史の毋丘儉に魏と鮮卑・烏丸の連合軍を統率させ、遼東の南境に駐屯させた。そして、詔勅によって公孫淵を洛陽に召喚しようとした。淵はこれを蹴って、軍隊を発して毋丘儉の軍勢に対抗した。このいきさつを説明した『魏書』明帝紀の一文は以下の通りである。

 「幽州刺史毋丘儉を遣わし、諸軍及び鮮卑・烏丸を率いて遼東の南界に屯す。璽書(皇帝の印璽を押した詔書)をして公孫淵を?す(召し寄せた)」。
「淵は兵を発して反く、儉は軍を進めてこれ討たんとす。雨の十日連くに会い、遼水大いに漲(あふ)れ、儉に詔して軍を引いて還らす」。

 この時の毋丘儉は、度遼将軍として軍隊を指揮して遼隧に駐屯している。この陣営から詔書を持参して公孫淵陣営に出向き、公孫淵に読み聞かせた勅使のことが完全に省略されている。続いて、大雨が10日も続いて遼水が溢れたために、毋丘儉に詔勅をくだして軍を引き上げさせているが、ここでも詔書を持参した勅使のことにはまったく言及していない。

●古代中国の駅伝
 中国においても駅伝は古くから発達していた。街道沿いに宿場を設けて宿泊施設を整え、かつ馬や馬車を備えて連絡の用に供する制度は、前6世紀の末、春秋時代の後半にはすでにつくられていた。やがて秦が天下を統一すると、首都から地方にのびる道路網を全国にはりめぐらせ、一定の距離ごとに中継所となる駅がつくられた。
 駅は主要な街道に沿って30里ごとに設けられ、馬を備えた。また集落ごとに郵や亭が置かれ、治安の維持を図るとともに公文書の逓送にあたった。
この駅をつなぐ形で築きあげられた交通、情報通信システムが駅伝制である。駅伝制はそのまま漢帝国に受け継がれてほぼ完成する。中央からの詔勅の伝達や、軍事などの緊急連絡には駅が用いられ、駆行といって馬を乗り継いで走った。( Yahoo!百科事典 )
 一説によると、駅伝馬は1日に300里走ったともいわれている。中国文化研究院は、特別に速い駿馬でも1日に200里駆けるのが誇張のないところだという。これらを勘案すると、駅伝馬を乗り継いで1日に駆ける距離は2~300里前後というところだろうか。

 洛陽から遼東までの緊急特使の片道走破日数を最短で計算すると、3600里÷300里=12日になる。毋丘儉軍が遼隧に駐屯したとき、10日間も大雨が続いて遼水が溢れてしまった。この情報が洛陽に届くまで最短で12日間を要し、朝廷で検討したあと皇帝の判断がくだされ、毋丘儉に撤退する旨の詔勅が届くのが最短で12日。単純な机上計算でこれだけの時が流れたことになるのだが、時間の流れが現代よりも格段にゆったりとしていた当時の現場ははたしてどうだったのだろうか。

●魏が派遣した使節団の規模
 呉の孫権が公孫淵を燕王に封じようとしたときに派遣した封爵使節団は、4人の使節代表に400人の随行員と600人の交易商人による1000人規模の使節団だった。むろん、九錫・節・文書・印綬・割り符・什器・官服など、封爵儀式に必要な礼器の一切を整えて派遣している。

 果たして魏は、どの程度の使節団を編成して倭国に差し向けたのだろうか。
 呉から遼東郡への海路は、帯方郡から倭国への海路よりも遥かに遠い。また、当時の国際情勢からみれば、遼東へ向かう呉の使節団よりは、倭国へ向かう魏の使節団のほうが護衛の負担も軽かったと思われる。 とはいうものの、伝説だった東海の島を訪問するのである。天子を戴く正統王朝としての見栄や面子もある。しかも、民族学的・地理学的調査目的も兼ねていたことだから、しかるべき数の調査員たちも同行していたはずである。

 私は、孫権が派遣した400人規模の使節団ほどではないにしても、その1割を割ることはなかったろうと見ている。まさか、激安温泉めぐりのTV番組取材スタッフよろしく、5指にも満たない人数でやってきたという見方があるとすれば、それは両国関係者と当事者と歴史そのものを過小評価することでしかない。
 

レンタル掲示板
/3